ここまで堕落しているとは!
鈴木宗男氏が仮釈放された当日のニュースをテレビが報じていた。参議院議員会館での会合の様子を見た。
それはヤクザ映画の中の一こまの様であった。居並ぶヤクザ集団の親分連中、目下裁判中の被告の小沢組の親分、鳩山組の組長、伊吹組の親分、それに何と社民組の福島女組長。少しは清潔感があるやにと思っていた辻本清美氏までもが顔を見せていた。
仮釈放の鈴木氏の前に土下座する子分が現れた時には、これは日本での情景かと目を疑った。しかし悲しいことに、これが我々の住むこの日本の現実なのである。
国会は法律を審議し作るところである。その立法府の一角にある議員会館での出来事がこうである。少なくとも氏は受託収賄など4つの罪で服役中の仮釈放の身である。政治に携わる保守から左までの人達の感覚がこうまでとは考えていなかった。悲しいことである。
テレビの報道姿勢は、スポーツ紙、週刊誌と同じレベルと認識してはいるが。
私は、経済紙と長野県内で広く読まれている地方紙を購読している。翌朝、両紙を開き、報道されていないのを知り、本当に安堵を覚えた。それが少なくとも救いである。
批判や、批評めいたことを云うのは精神衛生上よろしくない。もう止めようと思っていた。今の世間の風潮は、我々国民のレベル、民度のなせる業と諦めるしかなさそうである。
昔、船乗りだった私は相模湾の真鶴にヨットを係留し、海との関係を保っています。かって、海を捨てたことへの贖罪なのでしょう。また、山に郷愁を覚え、1年の大半を八ヶ岳の山ろくで過ごしています。標高1000メータの地で、自然へドップリト浸かり今を生きています。
2011年12月8日木曜日
2011年12月6日火曜日
昨今の八ヶ岳2景
12月4日、八ヶ岳西山麓の自宅周辺を、家人と散歩した。
ヨットを手放し、意気消沈している私を見かねて、家人たちが新しいオモチャを与えてくれた。ニコン社の一眼レフカメラである。
かつては、自宅に暗室を構え、同社のFシリーズのフイルムカメラと、数本のレンズで楽しんで居た時代があった。それらはいまでもカメラボックスで健在であるが使うことは全く無い。もっぱら軽い小さなデジタルカメラを使っていた。
ところで、最近のカメラはコンピュータなみの代物であり、私にはオーバースペック気味である。これでは又、家人に新しいパソコンをねだらざるを得ないと思われる。
新しいカメラで八ヶ岳を里から写してみた。北アルプスに比べ未だ雪は少ない。先ずは、私の処女作を。
ヨットを手放し、意気消沈している私を見かねて、家人たちが新しいオモチャを与えてくれた。ニコン社の一眼レフカメラである。
かつては、自宅に暗室を構え、同社のFシリーズのフイルムカメラと、数本のレンズで楽しんで居た時代があった。それらはいまでもカメラボックスで健在であるが使うことは全く無い。もっぱら軽い小さなデジタルカメラを使っていた。
ところで、最近のカメラはコンピュータなみの代物であり、私にはオーバースペック気味である。これでは又、家人に新しいパソコンをねだらざるを得ないと思われる。
新しいカメラで八ヶ岳を里から写してみた。北アルプスに比べ未だ雪は少ない。先ずは、私の処女作を。
2011年12月3日土曜日
さようならヨット風越!そしてありがとう
さようならヨット風越!そしてありがとう
2011年12月1日、小糠雨が降る中、ヨットハーバーの近くのマリーナに上架中の愛艇「風越」に私は別れを告げてきた。
1992年(平成4年)5月ヤマハのレーサークルーザー型の外洋小型プロダクションヨットを入手し「風越」と名づけ真鶴に係留し愛用してきた。ログブック(航海日誌)を見ると、新艇の頃は毎週末沖へ出ていたようである。
帆走の腕を磨き、時間に余裕が出たときには日本一週、いや出来れば、南太平洋の島々までも行きたいものと、夢見、張り切っていた様子が伺える。ヨット乗りは誰でも皆同じ思いで居るはずだ。
かつて、外国航路の船乗りだった私は、32歳のとき船を離れた。それが海を捨てたとの意識となり、海へ対して何となく「うしろめたさ」が在るのである。
子供の頃の海で遊んだ時期を加えると、私の人生の半分は海との関わりがあったように思う。
歳をとり、体力と気力も衰え、シングルハンドで沖へ出、帆走する回数が極端に少なくなってきた。
しかし、船を手放すことがこんなに淋しいものだとは知らなかった。気がつかなかった。心の中にぽっかりと大きな穴が空いたようである。そうだ、船は女性詞、名前を付け擬人化すれば女性そのものである。
若い頃好きな女性を残し、港を後にする船乗りの別離の気持ちを思い出す。寂しさは時が解決してくれるものと、年老いたセーラーは自分に言い聞かすしか無さそうである。
20年間楽しませて、夢まで与えてくれた「風越」有り難う。そしてさようなら。
君のことは永遠に忘れない。 しのつく雨が降り止まぬ茅野にて。
風越の映像を。
2011年12月1日、小糠雨が降る中、ヨットハーバーの近くのマリーナに上架中の愛艇「風越」に私は別れを告げてきた。
1992年(平成4年)5月ヤマハのレーサークルーザー型の外洋小型プロダクションヨットを入手し「風越」と名づけ真鶴に係留し愛用してきた。ログブック(航海日誌)を見ると、新艇の頃は毎週末沖へ出ていたようである。
帆走の腕を磨き、時間に余裕が出たときには日本一週、いや出来れば、南太平洋の島々までも行きたいものと、夢見、張り切っていた様子が伺える。ヨット乗りは誰でも皆同じ思いで居るはずだ。
かつて、外国航路の船乗りだった私は、32歳のとき船を離れた。それが海を捨てたとの意識となり、海へ対して何となく「うしろめたさ」が在るのである。
子供の頃の海で遊んだ時期を加えると、私の人生の半分は海との関わりがあったように思う。
歳をとり、体力と気力も衰え、シングルハンドで沖へ出、帆走する回数が極端に少なくなってきた。
しかし、船を手放すことがこんなに淋しいものだとは知らなかった。気がつかなかった。心の中にぽっかりと大きな穴が空いたようである。そうだ、船は女性詞、名前を付け擬人化すれば女性そのものである。
若い頃好きな女性を残し、港を後にする船乗りの別離の気持ちを思い出す。寂しさは時が解決してくれるものと、年老いたセーラーは自分に言い聞かすしか無さそうである。
20年間楽しませて、夢まで与えてくれた「風越」有り難う。そしてさようなら。
君のことは永遠に忘れない。 しのつく雨が降り止まぬ茅野にて。
風越の映像を。
2011年11月19日土曜日
北薩摩地方への遊訪記
11月中旬、中学同期会を機に北薩摩を訪れた。
フェリーを利用すればロマンの地天草は直ぐ近くである。長島町の諸浦(しょうら)の港から、天草に住む級友を訪ね、中田港へ渡った。ゆったりとした広い土地に住む級友夫妻から歓待を受け、のどかな空気を吸い、楽しい時間を共有した。
私は旧満州国の首都「新京」で生まれ、戦後北薩摩へ帰ってきた。小学校で1年、中学で3年、幼くそして多感な時期を、共に過ごした仲間達とは気が置けない。都会から疎開して来た子、外地から引き上げてきた子、いろいろな子供が大勢いた。敗戦で皆貧乏の時代だった。お互いを呼び捨てで名指しし、方言で語らいあった同期会はとても楽しいものであった。
鹿児島空港でレンタカー借りての短い旅だったが、数箇所をカメラでスケッチしてきた。数葉ご披露してみたい。
フェリーが着く長閑な天草の中田港
出水の鶴
阿久根の道の駅
大水車(薩摩川内)
白鳥が浮かぶイムタ湖
フェリーを利用すればロマンの地天草は直ぐ近くである。長島町の諸浦(しょうら)の港から、天草に住む級友を訪ね、中田港へ渡った。ゆったりとした広い土地に住む級友夫妻から歓待を受け、のどかな空気を吸い、楽しい時間を共有した。
私は旧満州国の首都「新京」で生まれ、戦後北薩摩へ帰ってきた。小学校で1年、中学で3年、幼くそして多感な時期を、共に過ごした仲間達とは気が置けない。都会から疎開して来た子、外地から引き上げてきた子、いろいろな子供が大勢いた。敗戦で皆貧乏の時代だった。お互いを呼び捨てで名指しし、方言で語らいあった同期会はとても楽しいものであった。
鹿児島空港でレンタカー借りての短い旅だったが、数箇所をカメラでスケッチしてきた。数葉ご披露してみたい。
フェリーが着く長閑な天草の中田港
出水の鶴
阿久根の道の駅
大水車(薩摩川内)
白鳥が浮かぶイムタ湖
2011年10月20日木曜日
自転車での峠越え始末記
ヒルクライム麦草峠
本日(10月20日)、自転車で麦草峠に行って来た。麦草峠は北八ヶ岳と南八ヶ岳の間を茅野側から佐久地方へ抜ける国道299号線に在る峠である。標高は2,127メータ。
茅野にある自宅は海抜925メータ。ざっと標高差は1,200メータある。今朝は峠まで行くつもりは無かった。途中まで行き少しトレーニングしようとスタートしたが、案外調子が良かったことと、みちの両側の紅葉と黄葉が素晴らしかったため上まで行ってしまった。
登山用のTシャツに薄いウインドブレーカー、ズボンは普段着の作業ズボン(今回は下にサイクルパンツをはいて、股間の痛み防止をした)。行動食にバナナと甘いお菓子、昼食用におにぎりを持った。カメラ、GPS,水少々、それだけのいたって軽装。
登りはTシャツだけで汗だくだく、平均スピード5,2キロメータ。帰りは最高速度30キロメータ、薄いウインドブレーカーでは寒かった。行程45キロのサイクル行となった。
山モミジの紅葉、カエデの黄葉も美しかったが、一番感銘を受けたのは唐松のスケールの大きなこう葉の風景であった。山深くは入って行かなかったけど、道端の景色でさえ言葉には尽くせない。小さなカメラでの映像だが、その一部をご紹介する。麦草峠で記念撮影
可憐な佇まいの山もみじ
茅野を望む黄葉
山モミジの紅葉
黄葉した唐松の雄大な風景
2011年10月14日金曜日
リンゴの樹物語
10年ほど前に植えた一本のリンゴの樹が庭にある。今年は沢山の実がなっている。いや、ならし過ぎたようである。
リンゴの樹は消毒しないと病気にかかり、葉がちりちりになり実は生らない。今までは消毒の仕方を知らないので、収穫できなかった。今年は一念発起、農協で薬を教えてもらい数回消毒してみた。
そしたら随分実がついた。本来なら摘果して数をへらすところを、折角実をつけたのでと、摘むのに躊躇しそのままにしておいた。可哀想でもあり、勿体なくもあったわけである。
袋を100枚買ってきて実にかぶせ、足りない分はそのままにしておいた。数えては見ないけど全部で200個以上はあるようだ。
実が大きくなってくると、形が悪かったり、虫が付いたりしたのは自然と落ちた。50個ほど落ちたであろうか。
数日前から色が良く大きめのものを試食している。まだ少し早いがなかなかの味である。品種は「フジ」なので、もっと甘くなると思う。ならしすぎて、小ぶりの実になってしまった。自分で育てて実らせたリンゴゆえ、楽しみながら味わうことにしよう。
2011年10月10日月曜日
悲しきかな、逃げ込み病院の医師たち
悲しきかな、逃げ込み病院の医師たち
都合が悪くなった政治家などが逃げ込んでいく病院がある。
私立大学の付属病院である。著名なのが慶応病院。
数年前、仕事を投げ出してしまった2世か3世かの首相がいた。出社拒否症候群と同じ症状を呈した未だに長州閥を引きずる政治家である。精神に異常をきたしたのかどうか、政務を遂行できず病院へ逃げ込んでしまった。
その折、記者会見に現れた医師たちは、かって封建時代のお抱え医師さながらの悲しき医師団であった。昔お抱え医師の社会的地位は低かった。
また昨今の小沢一郎氏の逃げ込んだ日本医大の医師たち、その悲しき記者会見の様子をニュースで見せられた。
一方、懸命に仕事に励んでいる医者たちも大勢居る。そして医者の地位を上げてきた人達だ。権力者におもねる医師たちは何を思っているのであろうか。
私の身内にも医者がいる。彼らはニュースを見て怒りを通り越し、恥ずかしさと悲しみにくれていた。
逃げ込み病院の医師たちよ、逃げ込んできた権力者の弁護の記者会見など拒否したらどうだろう。治療に専念し弁護はしない。それで良いではないか。
最近のニュースを見て感じること多であ
都合が悪くなった政治家などが逃げ込んでいく病院がある。
私立大学の付属病院である。著名なのが慶応病院。
数年前、仕事を投げ出してしまった2世か3世かの首相がいた。出社拒否症候群と同じ症状を呈した未だに長州閥を引きずる政治家である。精神に異常をきたしたのかどうか、政務を遂行できず病院へ逃げ込んでしまった。
その折、記者会見に現れた医師たちは、かって封建時代のお抱え医師さながらの悲しき医師団であった。昔お抱え医師の社会的地位は低かった。
また昨今の小沢一郎氏の逃げ込んだ日本医大の医師たち、その悲しき記者会見の様子をニュースで見せられた。
一方、懸命に仕事に励んでいる医者たちも大勢居る。そして医者の地位を上げてきた人達だ。権力者におもねる医師たちは何を思っているのであろうか。
私の身内にも医者がいる。彼らはニュースを見て怒りを通り越し、恥ずかしさと悲しみにくれていた。
逃げ込み病院の医師たちよ、逃げ込んできた権力者の弁護の記者会見など拒否したらどうだろう。治療に専念し弁護はしない。それで良いではないか。
最近のニュースを見て感じること多であ
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