2011年12月12日月曜日

にわか植木職、雑感

師走の剪定
 のんびり構えて冬支度が遅れていた。数日前、雪が2センチほど降り、剪定作業を促している。
 昨日、今日と快晴、気温-5度。絶好の剪定日和である。南側に植えて11年になるイチイ。東と北には100年になると称する3メーター丈のサワラ。3面の生垣の剪定に取り掛かった。10年を超えんとする剪定歴、梯子と愛用の刈り込み機(バリカン状)を駆使し2日で完了した。
 出来栄えは曲線を強調した凹凸のある、なかなか官能的ともいえる何時もの生垣が出来上がった。
 さて、問題は剪定で出てきた枝やら葉っぱである。大変な量である。農家の間にある我が家では、燃して天に戻すことにしている。
 土地の古老の話によると、ここは丸山塚と云い、狼煙台があった場所だそうだ。丸山と刻んだ塚石がある。10キロほど甲府に向かったところには、一番塚と呼ばれた狼煙台がある。そこへ向けて上げたらしい。近くには、かつて、武田軍団が騎馬でかけ抜けた棒道と呼ばれる軍用道路が残っている。
 八ヶ岳西山麓の古戦場跡で、にわか仕立ての植木職人が、昔にちなんで、狼煙を上げてみよう。
 あとは、ぼつぼつと立木の剪定に取り掛かるつもりで居る。

2011年12月8日木曜日

堕ちた政界模様

ここまで堕落しているとは!
 鈴木宗男氏が仮釈放された当日のニュースをテレビが報じていた。参議院議員会館での会合の様子を見た。
それはヤクザ映画の中の一こまの様であった。居並ぶヤクザ集団の親分連中、目下裁判中の被告の小沢組の親分、鳩山組の組長、伊吹組の親分、それに何と社民組の福島女組長。少しは清潔感があるやにと思っていた辻本清美氏までもが顔を見せていた。
 仮釈放の鈴木氏の前に土下座する子分が現れた時には、これは日本での情景かと目を疑った。しかし悲しいことに、これが我々の住むこの日本の現実なのである。
 国会は法律を審議し作るところである。その立法府の一角にある議員会館での出来事がこうである。少なくとも氏は受託収賄など4つの罪で服役中の仮釈放の身である。政治に携わる保守から左までの人達の感覚がこうまでとは考えていなかった。悲しいことである。
 テレビの報道姿勢は、スポーツ紙、週刊誌と同じレベルと認識してはいるが。
 私は、経済紙と長野県内で広く読まれている地方紙を購読している。翌朝、両紙を開き、報道されていないのを知り、本当に安堵を覚えた。それが少なくとも救いである。
 批判や、批評めいたことを云うのは精神衛生上よろしくない。もう止めようと思っていた。今の世間の風潮は、我々国民のレベル、民度のなせる業と諦めるしかなさそうである。

2011年12月6日火曜日

昨今の八ヶ岳2景

12月4日、八ヶ岳西山麓の自宅周辺を、家人と散歩した。
ヨットを手放し、意気消沈している私を見かねて、家人たちが新しいオモチャを与えてくれた。ニコン社の一眼レフカメラである。
かつては、自宅に暗室を構え、同社のFシリーズのフイルムカメラと、数本のレンズで楽しんで居た時代があった。それらはいまでもカメラボックスで健在であるが使うことは全く無い。もっぱら軽い小さなデジタルカメラを使っていた。
ところで、最近のカメラはコンピュータなみの代物であり、私にはオーバースペック気味である。これでは又、家人に新しいパソコンをねだらざるを得ないと思われる。
新しいカメラで八ヶ岳を里から写してみた。北アルプスに比べ未だ雪は少ない。先ずは、私の処女作を。


2011年12月3日土曜日

さようならヨット風越!そしてありがとう

さようならヨット風越!そしてありがとう
2011年12月1日、小糠雨が降る中、ヨットハーバーの近くのマリーナに上架中の愛艇「風越」に私は別れを告げてきた。
 1992年(平成4年)5月ヤマハのレーサークルーザー型の外洋小型プロダクションヨットを入手し「風越」と名づけ真鶴に係留し愛用してきた。ログブック(航海日誌)を見ると、新艇の頃は毎週末沖へ出ていたようである。
 帆走の腕を磨き、時間に余裕が出たときには日本一週、いや出来れば、南太平洋の島々までも行きたいものと、夢見、張り切っていた様子が伺える。ヨット乗りは誰でも皆同じ思いで居るはずだ。
 かつて、外国航路の船乗りだった私は、32歳のとき船を離れた。それが海を捨てたとの意識となり、海へ対して何となく「うしろめたさ」が在るのである。
 子供の頃の海で遊んだ時期を加えると、私の人生の半分は海との関わりがあったように思う。
歳をとり、体力と気力も衰え、シングルハンドで沖へ出、帆走する回数が極端に少なくなってきた。
 しかし、船を手放すことがこんなに淋しいものだとは知らなかった。気がつかなかった。心の中にぽっかりと大きな穴が空いたようである。そうだ、船は女性詞、名前を付け擬人化すれば女性そのものである。
 若い頃好きな女性を残し、港を後にする船乗りの別離の気持ちを思い出す。寂しさは時が解決してくれるものと、年老いたセーラーは自分に言い聞かすしか無さそうである。
 20年間楽しませて、夢まで与えてくれた「風越」有り難う。そしてさようなら。
 君のことは永遠に忘れない。                          しのつく雨が降り止まぬ茅野にて。

風越の映像を。




2011年11月19日土曜日

北薩摩地方への遊訪記

11月中旬、中学同期会を機に北薩摩を訪れた。
フェリーを利用すればロマンの地天草は直ぐ近くである。長島町の諸浦(しょうら)の港から、天草に住む級友を訪ね、中田港へ渡った。ゆったりとした広い土地に住む級友夫妻から歓待を受け、のどかな空気を吸い、楽しい時間を共有した。
私は旧満州国の首都「新京」で生まれ、戦後北薩摩へ帰ってきた。小学校で1年、中学で3年、幼くそして多感な時期を、共に過ごした仲間達とは気が置けない。都会から疎開して来た子、外地から引き上げてきた子、いろいろな子供が大勢いた。敗戦で皆貧乏の時代だった。お互いを呼び捨てで名指しし、方言で語らいあった同期会はとても楽しいものであった。
鹿児島空港でレンタカー借りての短い旅だったが、数箇所をカメラでスケッチしてきた。数葉ご披露してみたい。

フェリーが着く長閑な天草の中田港

出水の鶴

阿久根の道の駅

大水車(薩摩川内)

白鳥が浮かぶイムタ湖

2011年10月20日木曜日

自転車での峠越え始末記

ヒルクライム麦草峠

本日(10月20日)、自転車で麦草峠に行って来た。麦草峠は北八ヶ岳と南八ヶ岳の間を茅野側から佐久地方へ抜ける国道299号線に在る峠である。標高は2,127メータ。
茅野にある自宅は海抜925メータ。ざっと標高差は1,200メータある。今朝は峠まで行くつもりは無かった。途中まで行き少しトレーニングしようとスタートしたが、案外調子が良かったことと、みちの両側の紅葉と黄葉が素晴らしかったため上まで行ってしまった。
登山用のTシャツに薄いウインドブレーカー、ズボンは普段着の作業ズボン(今回は下にサイクルパンツをはいて、股間の痛み防止をした)。行動食にバナナと甘いお菓子、昼食用におにぎりを持った。カメラ、GPS,水少々、それだけのいたって軽装。
登りはTシャツだけで汗だくだく、平均スピード5,2キロメータ。帰りは最高速度30キロメータ、薄いウインドブレーカーでは寒かった。行程45キロのサイクル行となった。
山モミジの紅葉、カエデの黄葉も美しかったが、一番感銘を受けたのは唐松のスケールの大きなこう葉の風景であった。山深くは入って行かなかったけど、道端の景色でさえ言葉には尽くせない。小さなカメラでの映像だが、その一部をご紹介する。


           麦草峠で記念撮影


  
可憐な佇まいの山もみじ

茅野を望む黄葉
       
山モミジの紅葉

黄葉した唐松の雄大な風景

2011年10月14日金曜日

リンゴの樹物語

10年ほど前に植えた一本のリンゴの樹が庭にある。今年は沢山の実がなっている。いや、ならし過ぎたようである。
リンゴの樹は消毒しないと病気にかかり、葉がちりちりになり実は生らない。今までは消毒の仕方を知らないので、収穫できなかった。今年は一念発起、農協で薬を教えてもらい数回消毒してみた。
そしたら随分実がついた。本来なら摘果して数をへらすところを、折角実をつけたのでと、摘むのに躊躇しそのままにしておいた。可哀想でもあり、勿体なくもあったわけである。
袋を100枚買ってきて実にかぶせ、足りない分はそのままにしておいた。数えては見ないけど全部で200個以上はあるようだ。
実が大きくなってくると、形が悪かったり、虫が付いたりしたのは自然と落ちた。50個ほど落ちたであろうか。
数日前から色が良く大きめのものを試食している。まだ少し早いがなかなかの味である。品種は「フジ」なので、もっと甘くなると思う。ならしすぎて、小ぶりの実になってしまった。自分で育てて実らせたリンゴゆえ、楽しみながら味わうことにしよう。
たわわに生ったリンゴの樹の風景をご披露させていただく。







2011年10月10日月曜日

悲しきかな、逃げ込み病院の医師たち

悲しきかな、逃げ込み病院の医師たち

都合が悪くなった政治家などが逃げ込んでいく病院がある。
私立大学の付属病院である。著名なのが慶応病院。
数年前、仕事を投げ出してしまった2世か3世かの首相がいた。出社拒否症候群と同じ症状を呈した未だに長州閥を引きずる政治家である。精神に異常をきたしたのかどうか、政務を遂行できず病院へ逃げ込んでしまった。
その折、記者会見に現れた医師たちは、かって封建時代のお抱え医師さながらの悲しき医師団であった。昔お抱え医師の社会的地位は低かった。
また昨今の小沢一郎氏の逃げ込んだ日本医大の医師たち、その悲しき記者会見の様子をニュースで見せられた。
一方、懸命に仕事に励んでいる医者たちも大勢居る。そして医者の地位を上げてきた人達だ。権力者におもねる医師たちは何を思っているのであろうか。
私の身内にも医者がいる。彼らはニュースを見て怒りを通り越し、恥ずかしさと悲しみにくれていた。
逃げ込み病院の医師たちよ、逃げ込んできた権力者の弁護の記者会見など拒否したらどうだろう。治療に専念し弁護はしない。それで良いではないか。
最近のニュースを見て感じること多であ

2011年9月1日木曜日

台風12号接近中の相模湾

 大型台風が列島接近中との報に、真鶴港に係留しているヨットが心配になり、急遽8月31日早朝、長野の茅野のセカンドハウスから相模原の自宅に寄り、ハーバーへ急いだ。荒天にそなへて既に高い場所に移動してあったテンダー(小さなボート)を海へ降し、愛艇「風越」に乗り移った。ロープを取り出し対岸までテンダーで運び、2本の舫いを増し取りした。
船上のセール等を捕縛し強風に備えた。一通り台風への備えの作業を終え、テンダーを元の場所に戻した時は正午になっていた。
各艇とも既に舫いの増取りを終えてある。ヨットハーバーの写真を数葉と、防波堤の外の荒れた海のようすをカメラに収めた。
31日の夜は相模原に滞在した。1日になると12号は西へ進路を変えつつあった。神奈川県の蒸し暑さは尋常ではなかった。1,000メータの高地に住み慣れた私には耐えがたかった。後は息子に託し、ほうほうの体で茅野へ逃げ帰ってきた。12号は更に西に向かうようである。
荒れた海と、真鶴ヨットハーバーの3景をご紹介する。

荒れた港外の海

ハーバーのようす





2011年8月29日月曜日

坊主頭異聞

髪が薄くなってきた。残ってる髪も白くなり何とも心もとない。そこで面倒とばかり、バリカンを買い込み坊主頭になってみた。
どうしてどうして、これが中々いけている。外見は兎も角、気分爽やかであり、爽快である。朝、顔を洗うと同時に水道の蛇口の下へ頭を持って行く。石鹸を付け、ゴシゴシト洗う。乾いたタオルでつるりと拭えば終わりである。痒み防止と言い訳しながら、残っている育毛トニックを振りかけ、髪が濃くならないかと、いちるの望みを託す。
ユールブリンナーとまではいかないが、外見も捨てたものではない。そういえば、われわれの子供のころは、坊主頭であった。
初めての経験ではなく。元に戻っただけなのである。

坊主頭の景観

2011年8月19日金曜日

六時間の小さな冒険

母港、真鶴港の風越

試したことの無いことに挑戦するのを冒険というのだと思う。そしてそれは、命にかかわるかもしれない緊張感を伴うものでもあろう。
二十数年前の初夏の週末、私は伊豆半島の先端近くにある稲取港に停泊していた。降ろしたての小型クルージングヨット「風越」で、クルーは長男(当時東京商船大学生)と他の二人、私を含めて四人が乗り組んでいた。稲取は良港でそして温泉の出る観光地でもあり、私の好きな港の一つである。
上陸し温泉に入り、うまい魚料理を食べ船に帰ってのんびり過ごす。クルージングの醍醐味を満喫していた。ラジオの気象情報で天気図を作り、明日の航海の準備等を終え眠りについた。
翌朝、空は低い雲におおわれ流れも速い。朝の天気図では前線が近づいていることを知らせていた。日程に余裕があれば、日和見をして停泊を続けるべきだが、明日の月曜からは仕事がある。
ヨット一隻が伊豆大島に向けて出て行った。長男と相談し、出港を決断、荒天準備をして、出港した。
沖はやはり荒れていた。ジブ(前帆)をたたみ、エンジンとメインセール(主帆)での機帆走で走り始めた。
東北東で風力五、秒速十五メーターの風、進路は北、斜め右のアゲインストの風になる。スプレー(飛沫)が船上にあがる。なれない二人をキャビンに入れ、ハッチを閉める。海はもう真っ白、セールを半分にリーフ(縮帆)する。ハーネス(命綱)で身体を安全索につなぐ。海岸から離れて走る。バウ(舳)は浪に突っ込みデッキを潮が洗う。着ているカッパは濡れて光っている。熱川,城ヶ崎、川奈崎とやり過ごし、五時間ほど二人で苦闘した。
伊東の沖、そして初島まで来た。風も凪ぎいつもの慣れ親しんだ海に帰ってきた。
びしょ濡れの長男が言った。「親父さん、口の周りが真っ白だよ」。私は緊張のあまり口がからからに乾いていたのである。キャビンの二人もデッキへ出てきた。あと一時間で母港真鶴へ着く。
翌朝、私は東京の事務所で仕事をしていた。


2011年8月9日火曜日

北海道 大雪山縦走

若い仲間達(と言っても還暦前後)と大雪山を縦走してきた。
前夜層雲峡に泊まり、7月11日始発の黒岳ロープウェイでスタート、黒岳から北鎮岳に寄り旭岳への8時間の歩きだった。
残雪も多く久しぶりの長い歩きで疲れたけれど、好天に恵まれ、美しい花にも会えた楽しい山行きであった。
写真を数葉ご披露したい。

撮影は仲間のと私のと混在

黒岳頂上
ちんぐるま と つがざくら   
                   

      青い池               

お鉢平

                 雪渓で苦しむ

旭岳頂上




2011年5月28日土曜日

震災後の政治に想う

私は政治家の皆さんが解からない。この困難な時に何を考えているのであろうか。
他人の欠点を暴き、悪しざまにののしり、世の中を混乱させるのが、彼らの目的のように見える。

福島原子力発電所の事故への姿勢には悲しみさえ覚える。現政府が試行錯誤しながらも、一生懸命やっているの間違いない。混乱し、処理が拙く、遠回りしているかも知れない。

私は菅政権を応援している者ではないが、この時期にたまたま彼が首相だっただけだと考える。
長い間、原子力行政を担って来たのは誰なのか。従来自民党に所属し、政権党として長い間原子力行政に関わって来た人たちではないのだろうか。与党であった公明党の方々もそうであろう。また、関連する行政府の人たち、産業界の方々、関係学会の学者の先生方、ジャーナリストの人達、みな当事者だと思う。
そういう方々が、まるで自分たちのしてきた事への反省もなく、担当している今の政府の足を引っ張り、災害復興の邪魔をしているように見えるのは、私だけであろうか。

今は、出来るだけ早く原発を安定させ、そして被災した人たちが元に近い生活に戻ることに力を注ぐことがが第一で、いたずらに政争に明け暮れる時期ではない筈だ。民主党の一部の人達もそうである。

いずれ落ち着きを取り戻したときに、初動態勢、処置、責任等の検証をし、将来に備えれば良いのである。その折大いに批判し合えばいいのであって、今はその時ではない。皆で力を合わせ、一刻も早い復興を成し遂げる時だと考える。

2011年3月9日水曜日

海賊連行のニュースについての疑問

Bloggerの世界へ初めて船出した。海図もなければ、コンパスもない。行き先も決まっていない。おいおい世界が見えてくるだろう。log book(航海日誌)をつけながら航海を始めよう。ブログとはWeb上のLog bookだそうだから。

「海賊日本に移送」のニュースへの疑問
船籍がバハマのタンカーGuanabaraが海賊から襲われ、海賊を拘束したそうだ。その海賊が何故日本へ移送されるのか、理由がわからない。
運行を商船三井がしているだけなのに。商船三井は税金を日本に払うのを避けるため(Tax haven)、外国船籍にしたわけなのだから。海上自衛隊の軍艦を外国船籍の船を守るために出動させている理由もわからない。
国際貢献のためなら理解できるのだが。企業も国家に払うべき税金は納めるべきではなかろうか。海賊は日本に来るべきではないし、移送に海上保安庁の船を使うべきでもない。裁くのも日本の裁判所なのだそうだ。他国の船を襲った海賊を日本の裁判所が裁くとは、不思議な話とゆうか、ニュースである。何方か解説して欲しいものである。